四月二十日、私の部屋にピアノがやってきた。電子ピアノである。特に私がねだったものではない。両親、特に父が考えて買ったものである。
私の家には元々ピアノはある。アップライトのピアノで、色は茶色。祖母の嫁入り道具の一つとしてやってきたもので、リビングの重要ポイントに床補強までされる好待遇である。もちろん、祖母は最初はツェルニーとか、ブルグミュラーなどの練習曲を練習していたそうだ。なんでも習っていたのは、幼稚園のころだそうで、今では老化の進み具合を確かめる道具になっている。とは言うものの、祖母も絶対音感の持ち主である。
そんな祖母の才能と思いをつないだのが、父の3つ下の妹、つまりおばであった。私と同じピアノの教室へ小学校3年生から高校まで通っていた。おばは、県外の大学に進学しそのまま県外の企業へ就職となってしまったので、リビングのピアノは静まりかえったままになった。
そこに、私が登場した。おばが県外に行って家を離れたのを機に、私と両親と祖父母、そう祖母と同居することになったのだ。私が幼稚園のころである。父は、プログラマーだがなぜか音楽に関心があり、私にピアノを習わせたのだ。でもこれは自然な成り行きかもしれないと思う。父としては母親や妹が慣れ親しんできたピアノが奏者を待っているのは一目りょう然で我が子が上手になってくれればどんなに楽しいだろうと思ったに違いない。
そうして、私の運指の練習は始まった。座っても足が地面につかない高い椅子にこしかけて、一音一音確かめながら、曲を覚えていった。ピアノ教室の最初の発表会では最年少で、ステージの出入りで大きなはくしゅを覚えている。そのときのVHSテープは両親の宝物なんだろうなと思う。
父がプログラマーであることは前にも言ったが、母や祖母もパソコンの入力がとくいで、タッチタイピングソフトの得点を競うといつも負けていた。どうしても、指がおぼつかないのだ。ところが、小学六年生になったあたりから急に速く打てるようになったのだ。毎晩スコアが伸びていって、父のスピードに近づいていった。父からは「十分だ」とほめられた。教師である祖父からは「レディネス段階が来たんやな」とはげまされた。レディネス段階というのは、発達する準備が整ったとき、刺激を与えると大きく成長することが望まれるということらしい。私は、急に指の動きが速くなってことにうれしくなって、もっともっとと練習するようになった。これはピアノも同じで、それまでは、そんなに上手くない演奏だったので、祖父母の関心もそこまでなかった。ところが、祖父母がいうには「とつぜん」動きが速くなったので、拍手までしてもらえるようになった。私が夕食の前後にピアノを弾きだすと、認知症のそう祖母も「やかましい」といったり、調子がいいと後ろでおどったりするようになって家中が大さわぎになってきた。
そこで、新しいピアノの登場である。私が中学生になると帰宅もおそくなり、夜にしかピアノの練習ができなくなり、そう祖母のしゅうしんにも配りょして、ヘッドホンで練習できる電子ピアノが自分の家にやってきた。私は家族の期待を背負っているらしく、店で一番高額なピアノをもらった。祖父母たちは、夕食時の曲が聴けなくなるとさびしがっていたが、本物の感覚にはかなわないので、練習は電子ピアノで、演奏はリビングですることになると思う。
私の「とりえ」の相棒である二台のピアノ。これからもたくさん弾かさせてもらうことにした。